昔から勉強熱心で真面目なお国柄と呼ばれてきた日本が最近では、さまざまな分野で遅れをとっていると言われます。
企業努力や経済観念など目に見えることについては今も熱心ですが心についてはどうでしょう。
ややもすれば〇〇だから駄目だとか〇〇だから任せられないとか、明らかな差別があちこちで見受けられます。
物質的な豊かさである科学は進歩していきますが、心の豊かさである哲学や道徳については、おざなりになっている感は否めません。
日本でもやっと各企業が数年前からダイバーシティやLGBTについて考え始めましたが、言葉だけが独り歩きしていて、それを日常に生かしている方がどれだけいるのでしょう。
男女の格差社会という話は時折記事に入れていますが、日本はこうした格差社会がまだまだ多く存在している事もあり世界全体から見ても下から数えたほうが良いほど不平等な扱いを受けている方が多いことが分かっています。
表面上だけ見たら世界でも有数の恵まれた国と見られがちな日本も、今や経済面でも不安定な状態になってきつつあります。
若者がこぞって世界へ進出していくのも、どこかこの国に期待しなくなった気持ちの表れなのではないかとさえ感じます。
社会的地位での差別、育った環境での差別、国籍や宗教での差別、趣味嗜好での差別、こうしたあらゆることが心を豊かにしない何も育まない社会を形成していきます。
言葉を覚えるのではなく何か感じたなら、それを自分の身の回りに置き換えて色々な人とコミュニケーションをとってみてください。
今は三密を避け、距離を保つ行動様式が前提なので制限はあると思います、その中で自ら気づいたこと、そして自らできること、そうしたことから始めては如何でしょう。
まず自分自身を大切にする、その上で身近な存在を大切にする、そうした目に見える普段多く関わる人からまずきちんと向き合う、それができていないと他人とは触れ合えないのではないでしょうか。
自分、そして身近な大切な存在、そして関わるコミュニティやサークル、そうやって見える範囲、関われる範囲を形成していってこそ、ダイバーシティやLGBTとの関わり方が見えてくるものだと私は考えます。
私も〇〇製だとちょっとねとか〇〇国のは、やっぱりセキュリティが甘いよねとか言ってしまいますが、そうした事を言わなくても自然体で他国の人と関われたらどれだけ心が豊かになれるか・・そう感じます。
昔パソコンサポートカウンターで南米の家族や韓国の人を接客した際や職場から帰る途中に駅の自販機で見かけた欧州の人など私の言葉は稚拙でしたがコミュニケーションで触れ合えたこと、感謝された時に外国の人でも日本の人でも同じ人間だから気持ちは伝わるよねと感じたこと、そうした経験を若い時からしてる今の時代の若者たちは、もっともっと多国籍や色々な境遇の人たちと触れ合うことと思います。
そうした若い世代に何か伝えられるような大人になれたらと私も日々勉強させてもらっています。
まず見える範囲の人、多く関わる人とのコミュニケーションを、おざなりにせず大切にしていくこと、それが真の多様性やLGBTとの関わり方を考える基礎になるのではないでしょうか。
どこかのサイトの方がこんな事を言っていました。
多様性の尊重っていう無意味な言葉ばかり使わずにそれぞれの個人を尊重しようと。
それが本来の日本の法律のはずだとも・・確かにそうかもしれません。
個々人を尊重する、される世の中ならばダイバーシティがどうのLGBTがどうのなど課題にすらならずに、ごく当たり前のことを当たり前に、人としてどうあるべきか、どう接するべきかを各々が考え行動する世の中になっていくのではないでしょうか。
それができたら、それが本当の意味での皆が幸せに暮らす平和な社会だと思います。