認知能力とはIQや学校の成績など数字化され、目に見えるものです。
こちらは昔から様々な場面で人の優劣を判断する材料にされてきました。
こうした指標は進学時や就職時に目に見える形で人を比較することにより、合否の判断材料や理由の説明に多用されてきました。
合否の判断材料や理由付け、説明等をするために誰しもが目に見える形で判断することは合理的で効率的だから広く使用されてきたのでしょう。
しかしここ数年になって、認知能力等すなわち知識や成績、学力等より重要な指標として注目されつつあるのが非認知能力です。
非認知能力とは前述したIQ等で判断できない、数値化されにくいもの全般のことを指します。
それは例えば他人との協調性や思いやり、粘り強さや意欲、やる気など多岐にわたっています。
以前人から聞いたことがある話ですが「義務教育の期間では、たった一つだけ身につければ十分」というものがあると仰っていました。
私は回答を聞いてなるほどと納得しました。
学業の成績が良い人、自信がある人にこそ答えてほしいのですが、それは何だと思いますか?
答えは記事の最後に書かせていただきますので、皆さんご自分なりに考えてみてください。
非認知能力を養う方法として、子どもが自発的にしていることを、よく観察して何かができたら褒めてあげる、何か失敗したりしたら励まし支えてあげる、そうしていくことで子どもの自発性や自己肯定感が養われていきます。
子どもから学べることはたくさんあります。
人生は死ぬまで勉強と言われるように子どもに教えながら、自らも学ぶ、そうすることで共に成長でき、安心できる環境が育まれていくのではないでしょうか。
形だけで子どもに合わせようとしても、子どもの目線になってと言われても、何をどうすればいいか分からない人が多いとも言われます。
子どもの目線はしゃがんで、優しくゆっくり語りかけながら、子どもの言ってることにしっかり耳を傾けます。
大人になってからも言われることですが、自分自身の話や提案などをいかに相手に伝えるかということばかり学習する方がいます。
こうしたことも当然必要ですが、今のグローバル社会の中で更に必要となっていくのは相手が何を伝えたいのか、相手は何を言おうとしているのか、受ける側、聞く側の目線だと強く感じます。
口下手な人もいるでしょう、博識で専門用語ばかり連呼する人もいるでしょう、それは人それぞれですから、その人その人に合った受け答え、応じ方を身につけていくほうが色々なシーンで信頼されたり、共感を持たれたりするでしょうし、仕事等も円滑に進むのではないでしょうか。
子どもについてもそうです、大人の目線で、親の目線で判断せず、どうして子どもが興味を持っているのか、どうしてそう思うのか、まずは聞いてあげる、疑問を持つことから始めてみてはどうでしょう。
情操教育や道徳等、言葉だけが独り歩きして中身を伴わない、そうした積み重ねが今の日本の衰退に強く影響しているのではないでしょうか。
自分が知らないことを即答できる人は感謝されますし、助かります。
しかし一緒に考え悩み、共に考えてくれる、共感する人に誰しも好感を持つものです。
形にならないもの、形にできないもの、そうしたことをいかに大切にできるか、そうしたことがやっと注目されてきた感じすらあります。
非認知能力とは共感できる力、コミュニケーション能力、思いやり、優しさも含まれます。
コロナ禍で皆が大変な時だからこそ、そうした気持ちを忘れず持っていたいものです。
ではここで文中の話の回答を申し上げます。
義務教育で、それを学べば十分なこと、それは「人に分け与えること」です。
学生時代にそうした感情が芽生えればよいですが、人それぞれ置かれた環境も違いますので、家庭や自らが生きていく中でそれを身につけていれば必ず関わる人には伝わります。
何か人が困っていたら率先して動く、声をかける、そうしたことが自然とできる人は、たとえ何かで失敗しても何かつまづいてもフォローされたり助けられたりするものです。
分け与えることは物に限ったことではありません、気持ちを分け与える、知識を分け与える、色々な形がありますので、そうしたことができる人は引き続き、できていない人は「分け与える」とはどういう事か、これを機会に考えていただけたら幸いです。
認知能力は、その人の能力、非認知能力は、その人の魅力、私はそう感じます。